基本情報

  • 創立:1981(昭和56年)9月
  • 会員数:86名(令和6年3月現在)

沿革

神宮ネット裏三田会は今年(令和3年9月)で創立40周年を迎えますが、会員は当然のことながら入れ替わっており、創立当初からの歩みを体感している会員は数名を数えるのみとなっています。そこで、節目の年を迎えるにあたり、多くの会員の皆様に先達の思い、ご苦労を知って頂くためにも20年小史、30年記念誌を参考にこれまでの歩みをまとめてみました。
本小史により単に40年の年月を数えたのみでない運営面からの歴史の重みを知って頂ければ幸いです。 

(令和3年編「神宮ネット裏三田会40年小史」より抜粋)

【草創期】
神宮ネット裏三田会は昭和56年秋、草野清(大正14年経)、伊藤彰英(昭和3年経)、齋藤達(同13年経)、萩原繁彌(同9年商工・30年特選)、木村芳郎(同、同)、曽根忍(同、同)、野村英一(同27年法・政)の7人が集まり結成された。

塾野球チームは昭和46年秋~47年秋にかけての3連覇を達成して以来長い低迷期に入り、昭和52年秋、56年春には最下位に沈んだ。この状況をネット裏で観戦していた草野清を中心に応援団結成の話が持ち上がり、観戦していた仲間達全員一致で「神宮ネット裏三田会」という名前での創設が決まった。この会を私的なものに終わらせたくないとの初代会長草野の思いもあって、連合三田会加盟メンバーに加わるよう手続きに入ったが、当時の慶應連合三田会は登録三田会が増える傾向にあることから、登録には塾員の会員数10名以上で会員相互の親睦だけでなく義塾の発展に寄与する団体であることが求められていた。

このため野村英一らが会員獲得に奔走し、事務局の求める会員数をクリアし登録を認められたのは結成後2年近く経ってからである。この時「会則」も手直しを行ない、昭和56年9月12日付け(結成時に遡り)で慶應連合三田会事務局に提出している。
【発展期】
昭和57年前田祐吉が二度目の監督に復帰し、昭和58年3月には第一回野球部激励「すき焼会」が下田の野球部合宿所で開催された。しかし法政、明治の壁は厚く、昭和59年11月に福沢諭吉の肖像が入った1万円札が発行されるまでに優勝をと願っていた初代会長草野の思いは達成できなかった。

昭和60年に体調を崩した草野の後任として齋藤達がトップとなり、会長から幹事互選による代表幹事と名称を改めた。
この年の春、神奈川桐蔭学園高校から入学した志村亮投手が2試合連続完封で鮮烈な神宮デビューをし、秋のシーズンには遂に塾野球部は57年ぶりの全勝優勝を遂げた。

これをきっかけに、神宮ネット裏三田会の話を聞きつけ当会への入会申込みする者が後を絶たず、100名以上の大所帯に発展した(その後塾員のみの80名強に縮小)。

これまで顔見知りの会員だけで構成されていた神宮ネット裏三田会も大所帯になったことから、第三代代表幹事萩原繁彌の時代に三色の楯にJ.N.Mのアルファベッドを記した木製のバッジ(ワッペン型)を作製し会員に配布している。創立20周年の「神宮ネット裏三田会小史」にはこのバッジを表紙にデザインしたものが記念誌として発行されている。
【拡張期】
平成13年(2001年)秋、第五代代表幹事野村英一の時代に日本橋にあったユニコーン倶楽部で、野球部OBなど来賓を迎え創立20周年の祝賀会が開催された。当時は会員は79名のほか、客員(塾出身者以外)5名が在籍していたが、祝賀会は顔見知りの会員が集まる和気あいあいとしたものであった。

その後、第六代として宮川一郎(昭和33年経)が平成15~20年まで代表幹事を務め、春の「すき焼会」など野球部との絆を深める行事も参加人数が増え、楽しい行事の一つとしてすっかり定着した。

平成20年に現顧問の野島斌(昭和37年法・法)が第七代代表幹事となると、現役時代の人脈の広さから当会の名前が各方面に知れ渡るようになった。平成20年3月の日経新聞「文化」面には「神宮ネット裏にわが人生」との野島の手記が掲載され、当会の認知度はさらに高まり、当会の会員数も120名を超す大所帯へと発展していった。

この中で迎えた平成23年11月の「創立30周年記念祝賀会」は銀座交詢社で前田祐吉元監督による記念講演と江藤省三監督(当時)前島信野球部長(同)、西岡浩史三田倶楽部会長(同)ほか来賓をお迎えし、盛大に開催された。この様子は、平成23年11月29日付け日経新聞電子版にも取り上げられ、当会のプレゼンスを高めた。

30周年記念品としては塾野球部ユニフォームと同じグレーの生地にペンの刺繍をあしらったポロシャツを作製している。
また、これより先に会員に配布したネームホルダーは、神宮球場での観戦や当会公式行事開催時の会員の必需品となっている。
【成熟期】
平成25年(2011年)に八尾和夫(昭和50年経)が第八代代表幹事に就任。野島代表から卒業年次で13年若返った。八尾は仕事面でまだ現役で多忙であったが、野島代表当時の幹事の多くが留任し脇を支えた。

八尾も主に勤務した業種柄(日銀勤務)人脈は広く、塾野球部OB会である三田倶楽部等との繋がりを深め、秋の納会には毎回塾野球部の往年の名選手、元監督などを招聘し、会員にとって興味深い講演会が開かれている。また、この時期、会員相互間の親睦強化を図るため会員名簿の充実を進めた。

野球部は平成27年春に社会人野球、プロ野球で活躍した大久保秀昭が監督に就任すると、平成29年から令和1年秋季までの3年間で3回の優勝を遂げ、当会の会員もネット裏観客席で度々歓喜に沸いた。
この間会員数は100名を超す大所帯を維持しているが、会員の年齢構成は徐々に高くなり、諸行事への参加者が減るなど若い会員の入会が課題となってきた。

令和2年には世界中でコロナ禍が蔓延し、東京六大学野球リーグ戦も開催が危惧されたが、伝統を絶やさぬようにとの連盟の強い意志と感染対策により春には各校1試合ずつ、秋には各校2試合ずつの対抗戦形式により開催された。一方コロナ禍により当会は会員が一堂に会する主要行事が開催できず、会員あての連絡は書面の郵送に依存せざる得ない状況となった。

コロナ禍が続く令和3年春に代表幹事は八尾から齋藤髙(昭和48年経)に引き継がれた。齋藤は創設メンバーで第二代代表幹事齋藤達の次男で、創立40年目の年に世代が一巡した形で第九代代表幹事に就任した。

(代表幹事 齋藤 髙)