「70年前の大学日本代表アルバムに見る野球部塾員」増冨会員からの投稿

 現在より70年前の1955年、12月10日からフィリピンのマニラにて第2回アジア・アマチュア野球選手権大会が行われました。こちらはその遠征中の写真を収めたアルバムです。参加国は日本・韓国・台湾・フィリピンの4ヵ国、日本はこの大会にて戦った6試合を全勝し優勝を飾ります。今回はこの際の全日本チームに選抜された野球部塾員の方を紹介させていただこうと思います。

 

この大会に派遣された全日本は東京六大学野球連盟からの選抜軍となっており、合計16名を招集。内14名がプロ入りし、塾野球部から選ばれた3名も後にプロで活躍しました。こちらが集合写真になります。

                                                               そしてこちらは私が各々の名前を書き込んだものです。

                                                             いくつかの写真をピックアップして紹介させていただこうかと思います。まずは羽田空港にて選手を激励してくださっているファンの方々。

                                                              続いては会場となりました、リサール・メモリアル・スタジアム。そして開会式。

                                                                               選手たちはフィリピン内の様々な施設を見学していったようです。その内の一つ、アジアで現存する最古の大学であるサント・トーマス大学の前でのワンショット。

                                                             こちらの写真にて並んでいる3人が塾野球部の人物です。敬称は省略させていただきます、ご了承ください。

向かって右は佐々木信也(湘南)。

湘南高校では1年生時よりレギュラーを張り1949年夏の甲子園優勝に貢献。慶大でも1955年度の主将を務める等、中心選手として活躍しました。1956年に高橋ユニオンズにて日本プロ野球の新人選手としては初となる全試合フルイニング出場(154試合)を果たし、リーグ最多となる180安打を放ちます。ただこれほどの活躍を見せたにも関わらず、同年は稲尾和久のルーキーイヤーだったこともあり新人王獲得はなりませんでした。みなさま御存知のことと思いますが、現役引退後に野球解説者・スポーツキャスターとして人気を博します。

向かって左が衆樹資宏(湘南)。

佐々木信也にとっては高校・大学ともに1学年後輩となる人物です。1955年春季リーグにて戦後初の六大学三冠王に輝いています(打率.432・本塁打1・打点16)。1956年には佐々木の後を継いで主将に就任、秋季リーグで優勝し有終の美としました。プロでは毎日オリオンズに入団しましたがそこでは振るわず、主に1960年に移籍した阪急ブレーブスで活躍。1962年には日本プロ野球史上初となる開幕戦1回オモテ初球先頭打者本塁打を南海のジョー・スタンカから記録しています。この記録は同じく塾員である高橋由伸が2007年に達成するまでは衆樹のみのものでした。

中心に立つのは中田昌宏(鳴尾)。

高校時代は投手として春の甲子園に2度出場し準優勝も経験しましたが大学では打者に転向。学年は衆樹の同期にあたり、最終シーズンである1956年秋季リーグにて首位打者を獲得し優勝に貢献します。1957年に阪急ブレーブスにてプロデビューし通算154本塁打を記録。1961年には29本塁打で本塁打王を獲得しています(野村克也と同時獲得)。引退後も阪急でコーチ、オリックスで編成部長として、長く日本野球界の発展に尽くしました。

他の写真も見てみたいという方がおられましたら、下の動画にて全内容を紹介しておりますので御覧になっていただければと思います。

 しかし、こうして史料を収集・研究すればするほどに東京六大学野球の歴史と伝統を実感いたします。私たちが今現在に観戦している試合も、いずれその1ページとなっていくのでありましょう。

 今年は東京六大学野球連盟結成100周年という記念すべき年ですし、是非にいつまでも語り継いでいきたくなるような素晴らしい試合を塾野球部には見せてもらいたいです。そのためにもネット裏三田会の皆で声援を届けていきましょう。