「100年前の雑誌に見る野球部塾員の活躍」増冨会員からの投稿
東京六大学野球連盟は1925年に結成されました。つまりは来年、2025年に100周年を迎えるということになります。
1888年に創部と東京六大学では最古の存在である塾野球部には、是非この記念すべき年に優勝を飾ってもらいたいところです。
さてそこで今から100年前、連盟成立以前の雑誌に見られる野球部塾員をご覧になっていただき、その歴史と伝統をネット裏三田会の方々に感じていただければと思います。まずは表紙から。
1924年(大正13年)の11月1日付で発行されました『アサヒ・スポーツ』です。
当時は慶應・早稲田・明治・法政・立教の5大学でリーグを運営しておりましたが、慶早戦は開催されないという変則リーグでした。東京六大学野球の歴史に精通しておられる方なら御存知でしょうけれど、これは慶早戦がリーグ戦ではなく一対抗試合として行われていた際(1906年)に応援合戦が過熱し中止となってしまったことが要因となっております。1925年の東京六大学野球連盟結成に伴い、ようやく慶早戦は復活したのです。
ただし1920年からOB会の試合である三田稲門戦が開催されるようになっており、慶早の関係を雪解けさせるための段階は踏んでいたようです。こういった事情もあって、当時の人々には三田稲門戦が慶早戦の代替として認識されており、国内では最も人気を博したカードでした。こちらの『アサヒ・スポーツ』の表紙はその三田稲門戦前の写真となっております。このシーズンのカードは「5対0」「3対1」と稲門倶楽部の勝利に終わりました。
これより紹介させていただきます方々は偉大な先輩塾員なのですが、もう歴史上の人物ということもあり敬称は省略させていただきます。ご了承ください。
まずは表紙に写る小野三千麿(神奈川師範)。まだ4大学リーグであった1919年に2試合連続ノーヒットノーランを達成した名投手です。1922年には日米野球で日本側チームとして初の勝利投手となっています。都市対抗野球大会の「小野賞」に名前が残る人物です。(位置づけとしては「特別賞」に該当)
この日の三田倶楽部の写真です。
本塁前で立っている捕手は森秀雄(横浜商)。1919年および1920年に主将を務めた人物です。飛田穂州(早大)とともに立教大学をコーチしてチーム力を高め、当大学のリーグ加入の一助となりました。
ホームインしている選手は新田恭一(慶應普通部)。2023年夏に慶應義塾高校が1916年以来となる甲子園優勝を果たしたことは記憶に新しいですが、その1916年の優勝メンバーの一人となっています。(当時はまだ甲子園球場が設立されておらず、豊中球場での開催でした)遊撃手以外の全てのポジションを守ったことがあるという万能選手であり、1923年には主将。
後にプロ野球のコーチとして辣腕を振るい、小鶴誠を育成したことで知られます。小鶴は1950年に161打点を叩き出し、これは2024年現在でも日本プロ野球のシーズン記録として残っております。
↓それ以外の雑誌内における野球史人物を見たい方はこの動画を見ていただければと思います。今年の春季リーグ開幕前に作ったものになりますが。
繰り返しになりますけれど、来年は東京六大学野球連盟結成100周年という記念すべき年になります。
今年は塾野球部にとっては厳しい結果となってしまいましたが、新人戦で3季連続優勝しているのは明るい材料ですし、何とか天皇杯を宿敵・早稲田から奪還してもらいたいところです。
ネット裏三田会の皆様からの声援も彼らの支えとなっていることと思いますし、来年以降も大いに塾野球部を応援していきましょう。