「東京六大学野球連盟100周年記念展に見る、塾野球部ゆかりの品」 増冨会員からの投稿

野球殿堂博物館にて東京六大学野球連盟100周年記念展が開催されているので見学してまいりました。

記念展以外の展示物も含め、その日に見かけた慶應義塾野球部に関連する展示物を紹介していきたいと思います。文中の敬称は省略させていただきます、ご了承ください。

左は1950年のパ・リーグMVPトロフィー。

受賞者は別当薫(甲陽中→慶大)です。太平洋戦争期に塾野球部にて4番を務めていました。戦後にプロ入りし、大阪タイガース・毎日オリオンズにて活躍。NPBがセ・パの2リーグに分裂した1950年にMVPなので、初のパ・リーグMVPということになります。この年に行われた第1回日本シリーズでもMVPを獲得しています。

なお右は1959年のパ・リーグMVPトロフィーで受賞者は杉浦忠(挙母→立大)です。

こちらは広野功(徳島商→慶大)のホームランボールと当該打席での使用バット。ルーキーイヤーの1966年の8月2日に、巨人の堀内恒夫から逆転サヨナラ満塁ホームランを放った際のものになります。(当時は中日に在籍)

広野は六大学リーグでは通算8本塁打を放ち、長嶋茂雄(佐倉一→立大)と並ぶ当時のタイ記録をマークしています。彼の大学4年時の1965年に田淵幸一(法政一→法大)が入学。田淵は通算22本と記録を大幅に更新します。この一学年下の谷沢健一(習志野→早大)が18本、荒川尭(早稲田実業→早大)が19本と、この時期を境に本塁打が量産されるようになりました。原因としてはボールやバットの質の向上もあるでしょうが、1965年から神宮球場にラッキーゾーンが固定され、67年に廃止をしたものの改築に伴ってグラウンドを縮小したことが大きいと思われます。なおその後2008年にグラウンドが拡張されました。

バット全体。なお下部のバットは高井保弘(阪急)が通算27本目の代打ホームランを記録した際のものです。27代打ホームランは世界記録となっています。

このユニフォームは水原茂(高松商→慶大)が在学中の1933年に着用していたものだそうです。1933年と言えば「水原リンゴ事件」があった年ですね。10月22日に起きたこの騒動をきっかけに、慶早戦のベンチは慶應が三塁側・早稲田が一塁側と固定されるようになったという説があります。(『早慶戦110年史 SINCE1903』 ベースボール・マガジン社 2013年 には別説が紹介されています)

ここからは記念展の物品となります。

左上の帽子は2021年の主将、福井章吾(大阪桐蔭→慶大)が着用していたものです。同年は春秋連覇を達成し、塾野球部にとっては輝かしい年となりました。

下部の茶色のバットは宮武三郎(高松商→慶大)が使用していたバットです。宮武の通算7本塁打は前述した長嶋に抜かれるまでリーグ記録でした。通算72打点も、前述した田淵に抜かれるまでリーグ記録。なお現在は岡田彰布(北陽→早大)の81打点がリーグ記録です。また投手としても38勝6敗をマークしています。慶大の投手としては最多記録であり、20勝以上の投手では最高の勝率を誇っています。プロでは阪急軍の初代主将を担当。阪急東宝グループの創業者である小林一三が慶應塾員だったこともあってか、阪急軍は設立当初は慶應色が強い球団でした。

白木のバットは、高橋由伸(桐蔭学園→慶大)が、1997年9月28日に田淵を抜くリーグ新記録となる23号ホームランを放った際のバットです。先端付近に置かれているのが当該ボールになります。

こちらは1964年5月17日、渡辺泰輔(慶應義塾→慶大)が立教大学を相手に六大学リーグ初となる完全試合を達成した際に使用していたグローブです。

この日に二塁を守っていたのが2010年から2013年まで塾野球部の監督を務めていた江藤省三(中京商→慶大)。江藤は8回1死に池本武彦(福岡県立京都→立大)が強打したセカンドライナーを難なく捕球したそうですが、これは完全試合継続中ということに気付いていなかったからという逸話があります。(『KEIO革命』 江藤省三 ベースボール・マガジン社 2010年 による)

以上です。

遂に100周年を迎えることになった東京六大学野球、いちファンとして、今後も歴史と伝統を積み重ねていってくれればと思います。

noteというサイトにおきまして、東京六大学野球のコラムと選手寸評を個人的に執筆しております。

ご興味がありましたら、どうぞご覧ください。https://note.com/wakoh_wako/m/m345df7525f77