「戦後80年、戦死を遂げた塾野球部員への弔い」 増冨会員からの投稿

 残念ながら塾野球部は2025年春季リーグにて5位という結果に終わりました。一方、新人戦では4連覇と快進撃を見せております。この下級生の勢いも借りて、秋には天皇杯を授与されるよう奮闘してもらいたいところです。

 リーグ戦は今季も早稲田が優勝し3連覇を飾りましたが、昨秋と同じく明治との優勝決定戦の末でした。2季連続優勝決定戦は史上2度目という珍事。1度目は1939年春秋の出来事であり、ともに慶應と早稲田での決定戦となっております。春には早稲田が、秋には慶應が優勝という結果に。当時の慶早戦の人気を考えるに大変な盛り上がりを見せたことでしょう。私はこの1939年慶應野球部のブロマイドを20枚ほど所有しております。

 全てを解説しておりますと冗長になりますし、戦後80年ということもあり、戦死を遂げることになってしまった人物に絞って紹介させていただきます。生前の活躍を知っていただくことで、彼等への弔いとなってくれればと思います。敬称は省略させていただきます、ご了承ください。

楠本保(明石中)。

 明石中時代には剛速球投手として知られ、甲子園に6度出場。1932年夏の甲子園では36イニングで64奪三振という数字をマークしています。しかし登板過多による勤続疲労があったようで、大学では主に外野手としての出場でした。1939年および1940年の主将。

中田武雄(明石中)。

 楠本の1学年後輩(大学では同期)。明石中での下級生時代には中堅手を務めていましたが、楠本の衰えが見え始めると投手としての出番が増えていきます。1933年夏の甲子園・準決勝では中京商業を相手に延長25回を投げ抜いて完投敗戦したことでよく知られる投手です。楠本と異なり大学でも投手として活躍、リーグ通算12勝を挙げています。

根津辰治(島田商)。

 島田商業にて野球に取り組むまでは陸上の短距離選手として注目されていました。その脚力を活かし外野手として3度甲子園に出場しています。慶大では1940年秋に首位打者を獲得(1試合総当たり制、15打数6安打で打率.400)。在学中に島田商業でコーチも務め、同校の1940年夏の甲子園準優勝に貢献しました。

河瀬幸介(東邦商)。

 東邦商業(現・東邦)が甲子園に初出場したのは1934年春になりますけれども、その際に主将を務めていた外野手です。同大会で東邦商業は初優勝を飾っています。中学時代はトップバッターでしたが大学では9番を打つことが多かったようです。上位に置かれることもあったものの水野良一(愛知商)と併用されており、それほど打力は期待されていなかったことが窺えます。しかしながら起用される場合は常に中堅手であり、守備力は高く評価されていたのでしょう。

高木正雄(平安中)。

 甲子園に6回出場しており、1933年夏には甲子園準優勝投手となっています。同時代に京都商業のエースだった沢村栄治のライバル的存在でした。スローカーブを得意とし「打たれれば打たれるほどますますスピードを落とす」という軟投派投手。リーグ通算17勝、1939年秋の早稲田との優勝決定戦では1安打完封で勝利するという離れ業を演じました。13季ぶりの優勝ということもあってファンの熱狂ぶりは相当なものだったようで、選手たちは富士山麓山中湖畔の山荘へと逃避したと『慶應義塾野球部史』に記されています。1941年の主将。

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 今現在、我々が野球観戦を楽しむことができる日常も、上記の方々を含めた多くの犠牲の上に成り立っているものです。時にはそのことに思いを馳せ、襟を正し、彼等への畏敬を忘れないことが世界平和に繋がっていくのではないかと考えます。今日までリーグの伝統と歴史を紡いでくれた先人たちへの感謝を忘れず、塾野球部を応援していきましょう。